オリエンテ―リングの〈資本〉

再開しました。

3日目分の〈資本〉についてです。
オリエンテ―リング界で特別に価値をもつもの、例えばO-MAPだったりがあると思います。それをブルデューの概念に当てはめるとどうなるかを書いてみました。

では、原稿です。

 

 

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2.〈資本〉とオリエンテーリング〈界〉における〈資本〉

ブルデューの資本の概念を説明する前にハビトゥスについて、説明する必要がある。ブルデューは『実践感覚』で
 
  ハビトゥスとは、持続性をもち移調が可能な心的諸傾向のシステムであり、構造化する構造宵(structures structurantes)として、つまり実践と表象の産出・組織の原理として機能する素性をもった構造化された構造(structures structurées)である。そこでは実践と表象は、それらが向かう目標に客観的に適応させられうるが、ただし目的の意識的な志向や、当の目的に達するために必要な操作を明白な形で会得していることを前提してはいない。実践と表象はまた、客観的に「調整を受け」(réglé)「規則的で」(régulier)ありうるが、いかなる点でも規則(réglé)への従属の産物ではない。さらに、同時に、集合的にオーケストラ編成されながらも、オーケストラ指揮者の組織行動の産物ではない。(Bourdieu 1988=1990: 83-82)
 
   
と述べている。ハビトゥスは諸性向システム、つまり、構造であり、所与の社会的文化的環境のなかで人びとが習得する、無意識的ないし半意識的に機能するものの見方、感じ方、振る舞い方(宮島喬 1995)である。そして、構造化する構造として個人的・集団的実践や表象、すなわち、行動や考えを「歴史が生み出した図式に従って生産する」(Bourdie 1988)のである。
 
ブルデューはこのハビトゥスと〈界〉の関係を『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』で次のように整理している、
 
 ハビトゥスと界との関係は第一には条件付けの関係です。界はハビトゥスを構造化します。ハビトゥスはある界あるいは部分的にオーバーラップする複数の界の内在的必然性が身体化された産物です。界どうしの交叉や食い違いがあれば、分裂した、そのうえ引き裂かれたハビトゥスの原理になるでしょう。しかし同時に、ハビトゥスと界との関係は、知識の関係あるいは認知的構築の関係です。界がひとつの有意味な世界、意味や価値を付与された世界、自らのエネルギーを投入するに値する世界として成立するのに、ハビトゥスは一役買っているのです(Bourdieu 1992=2007: 182-183)
 
 そして、ブルデューは〈界〉を支配と被支配といった力関係の場として捉えている。その力関係を決めるのが〈資本〉のは位置関係だと考えた。そして、その〈資本〉は経済資本だけではないと指摘した点にブルデューの議論の鋭さがある。
 
 実践の配分原理l'economi des pratiquesについての一般科学は、経済的であると社会的に認められた活動だけに人為的に対象を絞ることはありません。この科学は、「社会物理学にとってのエネルギー」(1980k)である資本をあらゆる形態において把握しなければならず、ひとつの種類からもうひとつの種類の資本への変換を司る法則を明るみに出さなくてはなりません。私か示したように、資本は三つの基本的な種類、つまり経済資本、文化資本社会関係資本(1968c)として現われます(それぞれが独自の下位種をもっています)。これら三つに象徴資本をつけ加えなければなりません。象徴資本は先の三つの種類の資本いずれもがとりうる形態です。それらの資本はそれぞれの種別的論理を認める知覚カテゴリーを通して把握されたとき、あるいはこういってよければ、それら資本の所好と蓄積の恣意性を見落とす知覚カテゴリーを通して把握されたとき、象徴資本の形態をとるのです。経済資本の概念について私か長々と説明すべきではないでしょう。私は文化資本の特殊性を分析してきました。この概念にしゅうぶんな一般性を与えるためには、情報資本と呼んだ方がいいでしょう。文化資本は三つの形式、つまり身体化された形式、客体化された形式、制度化された形式のもとに存在します。社会関係資本は、顕在的あるいは潜在的な資源の総和であり、程度の差はあれ制度化された人間関係、互いに面識があり会釈し合う関係の持続的なネットワークを有している個人や集団の手に入るものです。つまり、そうしたネットワークのおかげで動かすことのできる資本や権力の総和です。(Bourdie 1992=2007:131)
  
 つまり、〈資本〉には経済資本の他に文化資本社会関係資本、加えて象徴資本があることを指摘している。加藤(2015)はより詳しくこれらの資本について説明している。加藤(2015)によれば、経済資本は
 
 土地、工場、労働、貨幣など生産財、所得、資産、物的財など経済財の総体、さらにある時点で尊重されているタイプの経済的利益が含まれる。経済資本は前季の収穫の論理にしたがう農業経済と合理的計算を要求する資本主義経済では機能の仕方が異なる。経済資本は社会空間における個人ないし集団の位置に対して主要な役割をはたす。この役割は、経済資本は文化資本、社会資本にも変換されうることから、ますます重要である。(加藤 2015: 204)
 
 という。オリエンテ―リング〈界〉で重要になるものでいえば、専用の地図(O-MAP)をつくる際の場所(テレイン)となる土地がそれにあたる。また、文化資本
 
 家族から受け継ぐ、あるいは学校教育によって生産されるさまざまな能力である。文化資本は三つの様態で存在する。身体化された、すなわち身体の持続的性向、つまりハビトウスとして存在する資本は、たとえば人前でよどみなく発言できる能力、クラシック音楽を鑑賞する能力。上層階級のものとされるスポーツの技能、あるいは学歴、教養など。客体化した資本とはたとえば絵画とか蔵書、情報処理機器など、文化(的)財である。さらに制度化された資本とは諸制度、とりわけ国家によって社会的・公的に認知された財、たとえば出身校や学位、各種の資格(会計士、弁護士など)や身分(国家/地方公務員など)である。(中略)
 文化的財それ自体には普遍的な価値はない。帰属する集団・階級によって特殊的である。ある種の文化財に固有の価値を認め、その良しあしを評価する能力はやはり時間をかけて身体化される。(加藤 2015:204-205)
 
という。家族や学校教育以外にもある集団や個人の教育によって、ある〈界〉に価値をもたらす能力は文化資本といえる。つまり、例えば、スポーツでいえば競技において卓越性をみせる身体化された技は文化資本と呼べる。したがってオリエンテ―リング〈界〉においても、競技でもちいる技というのは身体化された文化資本である。また、同時にオリエンテ―リング〈界〉では〈O-MAP〉をつくり〈競技会〉を開催する。これは有形無形の文化(的)財であり、客体化された文化資本である。それと同時にこの地図の作成技能と大会運営の技能も身体化された文化資本である。そして、中央競技団体が開催する全国大会で結果を残すことや、国際大会への出場資格を中央競技団体から賦与されることは制度化された文化資本である。
 また、社会関係資本は以下のように説明している。
 
 個人や集団がもっている諸社会関係の総体である。より豊富な経済資本と文化資本の所有者との広範かつ密接な関係ネットワークを構築すれば、みずからの社会資本が増大する。社会資本を獲得・蓄積するためにはこれを作り出し維持する努力、つまり社交性が必要である。たとえば威信のある団体(商工会議所、ロータリー・クラブなど)の会員になったり、ホテルやレストラン、自宅で誕生会、祝賀会、夕食会を催したり、ハイランクのゴルフ場でともにプレーしたりなど。(加藤 2015:206)
 
 これはつまり、スポーツ〈界〉でいえば、例えば国際競技団体に加盟するすることで、国内の競技団体がもつことができる組織的な正統性や国際大会に代表選手を送ることができる権利、国際会議に出席できる権利といったもの、そして国との関係性によって補助金がつくことなどがそれに当たる。オリエンテ―リング〈界〉でとらえ直すと、国際オリエンテーリング連盟(IOF)に加盟した団体が組織的な正統性を国際的に認知され、国際大会に代表をおくることができる権利を保持している。そして、かつてオリンテ―リングの振興の中核をになった日本オリエンテーリング委員会は、国の外郭団体の一部として国家予算を執行することができた。これらは社会関係資本を持つが故に得た利益である。
 最後に、象徴資本につい、加藤(2015)は
 
 まず、象徴資本は他の三資本とおなじような資本種ではない、ということである。そして一種、二種、あるいは三種の資本の持ち主、彼(彼女)が、彼(彼女)とおなじ資本の持ち主である他者、彼(彼女)とおなじ知覚・評価の図式を身体化している他者、つまりおなじ(ビトゥスを持っている他者から認識・認知されたとき、つまり彼(彼女)がもつ資本の権力性を正当と認めたとき、その資本がもたらす利益、つまり認識・認知のレベルにおける社会的重要性(尊敬、栄誉、賞賛、名声、信頼、信用など)を象徴資本と呼ぶ、ということである(加藤 2015:208-209)

 

 
という。したがって、経済資本、文化資本社会関係資本の「さまざまな形態に価値を認める者たちが、それらの形態の資本を所有している者たちに付与する信用や権威が象徴資本」(加藤 2015)ということになる。つまり、オリンテ―リング〈界〉でいえば、IOFに加盟しているという社会関係資本が〈界〉の成員たちに認知されることによって日本オリエンテーリング委員会に付与された権威や、競技会で優れた成績を収めたことで周りからの賞賛に得て獲得した権威などが象徴資本にあたる。
 
ここまで、ブルデューにおける〈資本〉の概念を経済資本、文化資本社会関係資本、象徴資本と整理してきたが、これらに対応するオリンテ―リング〈界〉の資本は以下のように整理することができる。
 
経済資本:土地、貨幣
文化資本:競技力、地図作成能力、運営能力、O-MAP、競技会、日本選手権者、日本代表
社会関係資本:IOF加盟団体であること、国の外郭団体であること、など
象徴資本:IOF加盟団体であることによる権威、日本選手権者であるという権威
これらの概念を用いて、オリエンテ―リング〈界〉の成立について論じていくこととする。
 
引用文献
 宮島喬, 1995, 「文化と実践の社会学へ」宮島喬編, 『文化の社会学ーー実践と再生産のメカニズム』有信堂高文社, 3-10.
 Pierre, Bourdieu, 1980, LE SENS PARATIQUE, Paris, Les Éditions de Minuit.(=1988, 今村仁司・港道隆訳『実践感覚1』みすず書房
  Pierre, Bourdieu, 1992,  Réponses : pour une anthropologie réflexive, Éditions de Seuil.(=2007, 水島和則訳『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待 ――ブルデュー社会学を語る』藤原書店
 加藤晴久, 2015, 『ブルデュー――闘う知識人――』講談社.
 
(約4000/8h.)
 
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これを書くのに3日くらいかかってしまいました。こいつのせいで、更新が止まってしまいました。
ただ、今後話をしていく中で重要なので、後回しにできませんでした。もっと効率よくやらないと、、、

はじめに

はじめに
こんにちは。東京大学オリエンテーリングクラブの濱宇津佑亮です。大学では社会学を専攻しています。今わたくし、「日本におけるオリンテ―リングの振興と受容について」をテーマに卒業論文を書いています。2年前にオリンテ―リングの導入50周年を迎え、50周年記念式典でオリエンテーリングの歴史を調べさせていただいたのをそのまま卒業論文として深堀することにしました。
 早速ぶっちゃけてしまいますと、10月のトータスクラブカップミドルの運営にかまけて全然筆が進んでおりません!1月8日提出、もう40日切ったのに、膨大に書くことが残っています!!
 もう毎日どんなのでもいいから文章を生み出していかないとマズいということに気が付き、どうにかして書くモチベーションを維持したいという想いから、このAdvent calenderを始めました。
 なので、ここに載せれるのは書きたてほやほや、鮮度バッチリの原稿(突貫工事の張りぼて文章...)です。それでも、もしこのテーマに興味をもって、読んでくださる方がいれば、つたない&論文の原稿で読みにくい文章ですが、お付き合いいただければ幸いです。そして、間違えや説明不足の点などを指摘いただけるととても嬉しいです。ご意見をとりいれてに論文をアップデートしていきたいと思っています。
 よろしくお願いいたします。

※Qiitaのアドベントカレンダーに間違えて登録し、削除されたので、ことらに移動。

そっちは2日間しか続かなかったのですが、出さんに卒論あげてること自体がコンテンツだから、どんなのでもあげてよと言われたので、再開してみます。

 

 

では、早速現状の序論です。

序論
1はじめに
 日本おいてスポーツがどのように受容されてきたのか。それは、明治以降にスポーツが伝来してから現在に至るまで、日本のスポーツ文化を考えるうえで重要なテーマである。今年2018年に日本におけるスポーツ統括団体である日本体育協会が、1911年から100年以上使ってきた「体育」という言葉を外し、日本スポーツ協会へ名称が変更になったことに、それは端的に表されている。名称変更に際して出された「日本体育協会名称変更趣旨書」(2018)に日本のスポーツの歴史が概観されているのでここで引用したい。

>1911 年、本会初代会長の嘉納治五郎は、日本のスポーツの現状と国際的動向に鑑み、国民体育の普及振興とともに、国際的なスポーツの祭典であるオリンピック競技大会への参加を念頭においた組織体制を整備するため、本会(大日本体育協会)を創立した。当時、 わが国では、従来からあった武術、遊山、舞踊等に加え、外国からスポーツが取り入れられ、体育、運動、遊戯、競技、武道または球技等の言葉に適宜、置き換えられ、広く使われていた。その中で、嘉納が考えていた「体育」の概念は、国民の身体形成とそれぞれの 人生の目的への適合を目指しつつ、力の充実や融和協調という当時の深刻化する時局が求 める精神を涵養し、究極的には人格の完成を目指す教育的営為であったとされる。
  後に、スポーツは、学校体育等において教育の手段として用いられるようになった。当時、体育という言葉はスポーツを含むという広義の意味をもつものと理解され、使用されてきたが、1964 年の東京オリンピックを契機にスポーツが社会に広がりをみせ発展していく中で、スポーツという言葉が多用される時代となってきている。現在では、広義に捉え れば、スポーツは競技として行うものだけでなく、健康維持のための運動、古来、人々に 親しまれてきた伝統的なスポーツ、さらには、新たなルールやスタイルで行うニュースポ ーツなども含め、体育や身体活動の概念を包摂しているものと考えられるようになった。(日本体育協会 2018)

 つまり、明治時代にお雇い外国人と呼ばれる海外から招聘された外国人教師たちにより、スポーツがもたらされた。そして、その多くが国家の富国強兵の号令のもと体育としての受容されていくことになったのである。一方で、はじめから国家によって導入された身体運動もある。例えば、明治時代の運動会(吉見 1999)や大正時代のラジオ体操(黒田 1999)などがその良い例であろう。そして、「スポーツが社会に広がりをみせ発展いった」1964 年頃に、国家によって導入されたのがオリエンテ―リングである。オリエンテ―リングはスポーツの大衆化政策の先鋒を担っていた。例えば、1974年の読売全国オリエンテ―リング大会には7826人が参加した。これは、一般市民が参加できるマラソン大会として日本で1967年に初めて行われた青梅マラソンの参加者が当時2950人であり、7826人を超えたのが77年までかかったことと比較すると、オリエンテ―リングがいかに一般大衆のスポーツとして注目されていたかが分かる。
 ところで、オリエンテ―リングとはどのようなものか。公益社団法人日本オリエンテーリング協会が定める「日本オリエンテーリング競技規則」(1994=2018)では「オリエンテ―リングとは、競技者が地上に印されたいくつかの地点(コントロール)を、地図とコンパスを使用して、可能な限り短時間で走破するスポーツである」と定義されている。このオリエンテ―リングという〈スポーツ〉が日本にどのように導入され受容されてきたのかをこの論文のテーマとして扱う。それはつまり、国家という政治の場からいかに独立して、独自の社会空間を形成してきたかを明らかにすることになる。

2 先行研究
 オリエンテ―リングを対象として、その受容についてはほとんど論じられていない。ただ、少数ながらも、たとえば幸村和美(2006)の研究があげられる。この論文ではオリエンテ―リングの振興に携わった当時者へのインタビュー調査や資料の収集を行い、走ることを制限した「徒歩OL」と国際的な基準に則った「国際方式」という二つの形態によって振興がなされていたことが明らかになった。また、論文ではないが雑誌『オリエンテーリング・ニュース』の中で、村越真(1984=1985)による「オリエンテーリングの歴史」が1984年4月号から1985年7月号にかけて全10回、連載された。これはオリンテ―リング専用の地図(O-MAP)と競技者の技能の向上を中心に1966年から1970年代のオリエンテーリングの歴史を述べている。
 一方で、1964年のオリエンテーリング以降にスポーツ界において新たな社会空間の形成について論じたものとしては、松尾哲夫(2015)の『アスリートを育てる〈場〉の社会学』があげられる。松尾はブルデューの〈場〉、象徴闘争、文化資本、再生産戦略、ハビトゥスといった理論を援用し、アスリート育成の〈場〉での民間スポーツクラブという新たな社会空間が成立したことを論じている。
 これらの研究を先行研究とし、本稿ではスポーツが社会に広がっていった1960年代から1970年代にかけて、オリンテ―リングという新たなスポーツの下位の〈界〉が形成されていったのかを明らかする。

(2016文字/所要時間2h.)

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 本日分終わりです。ずっと頭の中では考えながら、どう書くと効果的なのかわかっていないのがこの序論です。とりあえず、ネットで出てきた、バーバラ・ミント(『考える技術・書く技術』ダイヤモンド社, 1999) が提案している「状況・焦点化・問い」モデル(Situation-Complication-Question Model=S-C-Qモデル )を参考にしてみましたが、うまくかけていないような気がします。(先行研究の批判ってこうで良いのでしょうか、、、)
コメント欄にコメントもらえると嬉しいです。

 明日は、オリンテ―リング界を社会学の巨人の一人であるブルデューさんの理論で説明してみた、という文章になります。
 よろしくお願いします。僕は結構好きな話です!

オリエンテーリング〈界〉って?

こんばんは。濱宇津です。
よく「オリンテ―リング界」って言葉使いますよね。「オリエンテーリング界は狭い世界だから」といったいう風に使われたりしたのを最近も目にしました。さて、このオリンテ―リング界ってなんなんでしょう?
こういった社会の中のミクロな社会といったことを説明したりするのは、社会学の得意なことの一つです。今回は、社会学の巨人の一人ピエール・ブルデューさんの〈界〉の概念をつかって、このオリンテ―リング界なるものを説明したいと思います。

理論枠組み
本稿で用いる諸概念の整理
 本稿では、オリエンテーリングというスポーツの一形態がどのように日本に普及したのかを明らかにする。オリエンテーリング〈場〉が政治〈場〉の影響を強く受けながら形作られていった様相と、その後、愛好家のクラブが成立しオリエンテーリング〈場〉で力を増していく中で、オリエンテーリング〈場〉の構造が変動し政治〈場〉から独立していく様相を分析することを主眼としている。
 このため分析に当たっては、オリエンテ―リング実践に関わる集団・組織・制度などの構造の変動性を視座に入れること、その変動の様相を、体力つくりを中心とした集団とオリエンテ―リング愛好者の集団における象徴闘争との関係で捉えることが求められる。そこで本稿では、空間の動態的な関係性を把握するうえでの〈場〉・資本・ハビトゥス・象徴闘争・再生産戦略などの概念について、主にブルデューの議論を下敷きにしながら分析する。

1〈界〉とオリエンテーリング〈界〉
〈界〉とは一つの社会空間である。ブルデューは〈界〉について以下のように述べている。

 社会の進化は次第に、固有の法則のもつ、自律的な世界(わたしが界と呼んでいるもの)を出現させます。根本規範というものはしばしば同語反復です。経済界の根本規範は、功利主義哲学者たちが編み出したものですが、「ビジネスはビジネス」です。芸術界の根本規範は、芸術至上主義派(芸術のための芸術派)が明示的に措定しましたが、「芸術の目標は芸術」「芸術には芸術以外の目標はない」です。こうして、一つの根本規範を持つ、他の領域のノモスに左右されることのないノモスを持つ社会領域、自律したauto-nomes社会領域が出現します。そのような世界は、そこで生起することを、そこに賭けられる賭金=争点を、他の世界の原理と基準に還元できない原理と基準にしたがって評価します。(Bourdieu 1994=2007:195)

また、ブルデューは〈界〉について歴史的ではなく、分析的にも以下のように説明している。

 高度に差異化〔分化〕した社会では、社会というコスモスはいくつかの相対的に自律した社会的ミクロコスモスから成り立っています。そのミクロコスモスは客観的諸関係からなる空間であって、他の界を統御しているメカニズムや必然性には還元されない、特殊なメカニズムや必然性が存在する場所です。(Bourdie 1992=2007:131)

つまり、界は歴史的分化によってうまれたミクロコスモスであり、社会空間を構成する〈界〉は他の〈界〉から相対的な自立性を備えている。したがって、加藤晴久(2015)がいうように〈界〉が「相対的に自立(律)的であるということは、それぞれの界には固有の賭け金=争点(権力、資本)がある」ということである。それはつまり、「それぞれの界でひとは固有の目標を追求するということ、固有の資本の獲得・蓄積を目指すということ」である.また、それぞれの〈界〉では、その〈界〉にそった固有の規則を確立し、たとえば経済〈界〉といった他の界からの影響を排除して自立(律)性を維持しようとする(加藤 2015)。
 ここまでの議論に従うと、スポーツ〈界〉はアマチュアリズムにおいて唱えられていた「スポーツの目標はスポーツ」というように、スポーツの固有の規則を持ち、他の〈界〉から自律した社会領域といえる。また、ブルデューは〈界〉同士の関係からだけではなく、〈界〉内部の性質に注目し次のようにも述べている。

 界は位置の間の客観的諸関係のネットワーク、あるいは布置構造として定義できます。それらの位置は、その存在によって、またその位置が位置を占める者、行為者もしくは機関に対して押しつけられる決定作用によって、そしてまたさまざまな種類の権力(もしくは資本)
の分布構造においてその位置が現に作用するか潜在している状況(situs)によって、さらにほかの位置との客観的な関係(支配、従属、同型性など)によって客観的に定義されます。それらの権力を握っているということは、界のなかで賭け金になっている特殊な利潤を手に入れるということです。(Bourdie 1992=2007:131)

つまり、〈界〉は〈位置〉positionsの場である。換言すれば、それぞれの行為者(個人ないし集団)がそれぞれの資本の総量と構成、それが規定する性向に応じて空間に位置を占めているということである。そして、界はまた、〈位置取り〉のprises de position の場である。〈位置取り〉とは行為者がそれぞれの位置に適応するかたちでとる諸行動と諸表現の構造化された総体である(加藤 2105)。つまり、スポーツ〈界〉とはスポーツにまつわる行為者がそれぞれの資本の総量と構成、性向に応じて〈界〉においてある位置を占めており、その位置に適応するかたちでスポーツ行動とスポーツ表現が構造化された総体でもある。それらのそれぞれの行為者の関係性において、スポーツ〈場〉は成り立っている。
 さらにブルデューは〈界〉における〈賭け金〉の概念をゲームのたとえで説明している。

 界には本質においてプレーヤーどおしの競争の産物であるような賭け金があります。ゲームへの投資、つまりイリューシオillusio(ludusの語源はゲームです)があるのです。プレーヤーたちがだんだん本気になっていき、時には激しく対立し合うのは、プレーヤーたちが共通してゲームにもその賭け金にもひとつの信念=信仰(ドクサ)、ひとつの承認を与えてしまっているため、ゲームや賭け金が問題とされることがないからなんですね(プレーヤーたちは「契約」によるわけではなく、とにかくゲームをプレイしてしまっているのですから、その時点でゲームがプレイに値する、骨折りがいがあるということに同意してしまっているんです).(Bourdie 1992=2007:132)

 つまり、〈界〉の成員は〈界〉に参加しているがゆえに、その参加している〈界〉固有の賭け金=争点、つまり〈資本〉や権力は価値のあるものであり、それらを競争し合いことは意味があることだという信念(イリューシオ)を持っている。〈界〉ではイリューシオを動力として、賭け金の争い合いが起こるのである。このように〈界〉の内部では闘争が繰り広げられており、〈界〉は不変ではないととられている。つまり〈界〉の構造は、〈界〉の歴史の中での現時点の状態であり、変動する。〈界〉はある位置同士の闘争の場でもあるのである。また、ブルデュー文化財生産の〈界〉における闘争について、より詳しく言及している。

 文学界ないしは芸術界で繰り広げられている闘争の主要な賭け金の一つが、まさに界の境界の定義、つまり闘争への正統なる参加権の定義であるわけです。これこれの潮流、これこれのグループについて、「あれは詩ではない」とか「文学ではない」と言うことは、正統な存在を認めないこと、ゲームから排除すること、破門することです。この象徴的排除は、正統的実践の定義を押しつけ、例えば、ある形の特殊的資本の所有者の特殊的利益に合致する、芸術なりジャンルなりの歴史的定義を、永遠・普遍の本質に仕立て上げてしまおうとする努力の、裏側に他なりません。この戦略は、その賭け金である管轄範囲の定義と同様、不可分の形で芸術的かつ政治的(特殊的な意味で)なものですが、それがうめくいった場合には、他のすべての生産者が所持している資本に対する一つの権力を与えてくれる体のものです。何故なら、正統的実践の定義を押しつけることができれば、自分の手持ちの切札に最も有利なゲームの規則が、全員に対して(とりわけ、少なくとも最終的には、消費者に)押しつけられることになり、自分の成就したものが、すべての成就の尺度となるからです。

 つまり、文化財生産の〈界〉の闘争では、〈界〉の境界の定義、すなわち正統的実践の定義の闘争が繰り広げられているのである。これは文化財生産の〈界〉の下位の〈界〉であるスポーツ〈界〉にもいうことができる。それはつまり、スポーツ〈界〉ではスポーツの正しいやり方や正しいあり方という、価値を賭けて闘争が行われている。そしてブルデューもスポーツ〈場〉について

 スポーツ活動の場は、わけてもスポーツ活動の正しい定義の強制を、スポーツ活動の正しい機能の強制を、独占しようとすることを狙った闘争の場です。プロフェッショナリズム/アマチュアリズム、するスポーツ/見るスポーツ、エリートの弁別的なスポーツ/大衆の庶民的なスポーツ等々。さらに、このスポーツ活動の場は、それ自体が正しい肉体、肉体の正しい使い方の定義をめぐる闘争の場に組み込まれています。(略)スポーツの使用という肉体の使用にとくにかかわりある人びとが、正しい定義を独占的に押し付けようとして争う闘いは、おそらく歴史を超えて不変です(Bourdieu 1980=1991:??)(読む)

と説明している。こうしたブルデューの〈界〉の議論に依拠しながら、松尾哲夫(2015)はスポーツの〈場〉を「スポーツ文化にとって正しいやり方や正しいあり方を示す文化的正統性という一つの共通の価値を賭けて、スポーツに利害・関心を有する人々(アスリート、監督・コーチ、審判、保護者、競技団体関係者、観衆、雑誌・新聞編集者、学者、批評家など)の総体の間に結ばれる客観的諸関係からなる理念的に想定された空間」と定義している。また、「それは、社会的空間の構造と密接に連関をもちながら相対的に独自の価値観、美意識や信念によって成り立つ、一定の自律した世界としてとらえることができる」とも述べている。そして、「スポーツ〈場〉はその内部と外部、需要と供給の関係の中で、相対的自律性や文化的正統性の獲得に向けた不断の再生産戦略の遂行を余儀なくされていて、他の〈場〉とのせめぎ合い、あるいはその〈場〉を構成する複数の下位〈場〉同士のせめぎ合いを常態とするものである」といい、「スポーツ〈場〉は、スポーツ実践の正統なあり方の定義をめぐり、さまざまなレベルで象徴的な闘争が繰り広げられている〈場〉として把捉される」という(松尾 2015)。本稿でも、この松尾の定義を従いスポーツ〈場〉を捉える。
 オリエンテ―リングもスポーツの一形態であり、スポーツ〈界〉の下位の〈界〉として捉えることができる。従って、オリエンテ―リング〈界〉は「オリンテ―リング分化にとって正しいやり方や正しいあり方を示す文化的正統性という一つの共通する価値を賭けて、オリンテ―リングに利害・関心を有する人々(アスリート、監督・コーチ、クラブ員、競技団体関係者、行政職員、雑誌・新聞編集社、学者、批評家など)の総体の間に結ばれる客観的諸関係からなる理念的に想定された空間」と定義することとにする。

(4000文字/6h)

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以上、ブルデューさんの〈界〉の概念を援用したオリンテ―リング〈界〉の議論でした。
これを使いながら、歴史を記述していくことになります。
また、ブルデューさんじゃ〈界〉以外にもハビトゥスや、資本とった重要な概念も説明しており、明日以降はこれらをオリンテ―リングに当てはめていくことにします。