はじめに

はじめに
こんにちは。東京大学オリエンテーリングクラブの濱宇津佑亮です。大学では社会学を専攻しています。今わたくし、「日本におけるオリンテ―リングの振興と受容について」をテーマに卒業論文を書いています。2年前にオリンテ―リングの導入50周年を迎え、50周年記念式典でオリエンテーリングの歴史を調べさせていただいたのをそのまま卒業論文として深堀することにしました。
 早速ぶっちゃけてしまいますと、10月のトータスクラブカップミドルの運営にかまけて全然筆が進んでおりません!1月8日提出、もう40日切ったのに、膨大に書くことが残っています!!
 もう毎日どんなのでもいいから文章を生み出していかないとマズいということに気が付き、どうにかして書くモチベーションを維持したいという想いから、このAdvent calenderを始めました。
 なので、ここに載せれるのは書きたてほやほや、鮮度バッチリの原稿(突貫工事の張りぼて文章...)です。それでも、もしこのテーマに興味をもって、読んでくださる方がいれば、つたない&論文の原稿で読みにくい文章ですが、お付き合いいただければ幸いです。そして、間違えや説明不足の点などを指摘いただけるととても嬉しいです。ご意見をとりいれてに論文をアップデートしていきたいと思っています。
 よろしくお願いいたします。

※Qiitaのアドベントカレンダーに間違えて登録し、削除されたので、ことらに移動。

そっちは2日間しか続かなかったのですが、出さんに卒論あげてること自体がコンテンツだから、どんなのでもあげてよと言われたので、再開してみます。

 

 

では、早速現状の序論です。

序論
1はじめに
 日本おいてスポーツがどのように受容されてきたのか。それは、明治以降にスポーツが伝来してから現在に至るまで、日本のスポーツ文化を考えるうえで重要なテーマである。今年2018年に日本におけるスポーツ統括団体である日本体育協会が、1911年から100年以上使ってきた「体育」という言葉を外し、日本スポーツ協会へ名称が変更になったことに、それは端的に表されている。名称変更に際して出された「日本体育協会名称変更趣旨書」(2018)に日本のスポーツの歴史が概観されているのでここで引用したい。

>1911 年、本会初代会長の嘉納治五郎は、日本のスポーツの現状と国際的動向に鑑み、国民体育の普及振興とともに、国際的なスポーツの祭典であるオリンピック競技大会への参加を念頭においた組織体制を整備するため、本会(大日本体育協会)を創立した。当時、 わが国では、従来からあった武術、遊山、舞踊等に加え、外国からスポーツが取り入れられ、体育、運動、遊戯、競技、武道または球技等の言葉に適宜、置き換えられ、広く使われていた。その中で、嘉納が考えていた「体育」の概念は、国民の身体形成とそれぞれの 人生の目的への適合を目指しつつ、力の充実や融和協調という当時の深刻化する時局が求 める精神を涵養し、究極的には人格の完成を目指す教育的営為であったとされる。
  後に、スポーツは、学校体育等において教育の手段として用いられるようになった。当時、体育という言葉はスポーツを含むという広義の意味をもつものと理解され、使用されてきたが、1964 年の東京オリンピックを契機にスポーツが社会に広がりをみせ発展していく中で、スポーツという言葉が多用される時代となってきている。現在では、広義に捉え れば、スポーツは競技として行うものだけでなく、健康維持のための運動、古来、人々に 親しまれてきた伝統的なスポーツ、さらには、新たなルールやスタイルで行うニュースポ ーツなども含め、体育や身体活動の概念を包摂しているものと考えられるようになった。(日本体育協会 2018)

 つまり、明治時代にお雇い外国人と呼ばれる海外から招聘された外国人教師たちにより、スポーツがもたらされた。そして、その多くが国家の富国強兵の号令のもと体育としての受容されていくことになったのである。一方で、はじめから国家によって導入された身体運動もある。例えば、明治時代の運動会(吉見 1999)や大正時代のラジオ体操(黒田 1999)などがその良い例であろう。そして、「スポーツが社会に広がりをみせ発展いった」1964 年頃に、国家によって導入されたのがオリエンテ―リングである。オリエンテ―リングはスポーツの大衆化政策の先鋒を担っていた。例えば、1974年の読売全国オリエンテ―リング大会には7826人が参加した。これは、一般市民が参加できるマラソン大会として日本で1967年に初めて行われた青梅マラソンの参加者が当時2950人であり、7826人を超えたのが77年までかかったことと比較すると、オリエンテ―リングがいかに一般大衆のスポーツとして注目されていたかが分かる。
 ところで、オリエンテ―リングとはどのようなものか。公益社団法人日本オリエンテーリング協会が定める「日本オリエンテーリング競技規則」(1994=2018)では「オリエンテ―リングとは、競技者が地上に印されたいくつかの地点(コントロール)を、地図とコンパスを使用して、可能な限り短時間で走破するスポーツである」と定義されている。このオリエンテ―リングという〈スポーツ〉が日本にどのように導入され受容されてきたのかをこの論文のテーマとして扱う。それはつまり、国家という政治の場からいかに独立して、独自の社会空間を形成してきたかを明らかにすることになる。

2 先行研究
 オリエンテ―リングを対象として、その受容についてはほとんど論じられていない。ただ、少数ながらも、たとえば幸村和美(2006)の研究があげられる。この論文ではオリエンテ―リングの振興に携わった当時者へのインタビュー調査や資料の収集を行い、走ることを制限した「徒歩OL」と国際的な基準に則った「国際方式」という二つの形態によって振興がなされていたことが明らかになった。また、論文ではないが雑誌『オリエンテーリング・ニュース』の中で、村越真(1984=1985)による「オリエンテーリングの歴史」が1984年4月号から1985年7月号にかけて全10回、連載された。これはオリンテ―リング専用の地図(O-MAP)と競技者の技能の向上を中心に1966年から1970年代のオリエンテーリングの歴史を述べている。
 一方で、1964年のオリエンテーリング以降にスポーツ界において新たな社会空間の形成について論じたものとしては、松尾哲夫(2015)の『アスリートを育てる〈場〉の社会学』があげられる。松尾はブルデューの〈場〉、象徴闘争、文化資本、再生産戦略、ハビトゥスといった理論を援用し、アスリート育成の〈場〉での民間スポーツクラブという新たな社会空間が成立したことを論じている。
 これらの研究を先行研究とし、本稿ではスポーツが社会に広がっていった1960年代から1970年代にかけて、オリンテ―リングという新たなスポーツの下位の〈界〉が形成されていったのかを明らかする。

(2016文字/所要時間2h.)

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 本日分終わりです。ずっと頭の中では考えながら、どう書くと効果的なのかわかっていないのがこの序論です。とりあえず、ネットで出てきた、バーバラ・ミント(『考える技術・書く技術』ダイヤモンド社, 1999) が提案している「状況・焦点化・問い」モデル(Situation-Complication-Question Model=S-C-Qモデル )を参考にしてみましたが、うまくかけていないような気がします。(先行研究の批判ってこうで良いのでしょうか、、、)
コメント欄にコメントもらえると嬉しいです。

 明日は、オリンテ―リング界を社会学の巨人の一人であるブルデューさんの理論で説明してみた、という文章になります。
 よろしくお願いします。僕は結構好きな話です!