オリエンテーリング〈界〉って?

こんばんは。濱宇津です。
よく「オリンテ―リング界」って言葉使いますよね。「オリエンテーリング界は狭い世界だから」といったいう風に使われたりしたのを最近も目にしました。さて、このオリンテ―リング界ってなんなんでしょう?
こういった社会の中のミクロな社会といったことを説明したりするのは、社会学の得意なことの一つです。今回は、社会学の巨人の一人ピエール・ブルデューさんの〈界〉の概念をつかって、このオリンテ―リング界なるものを説明したいと思います。

理論枠組み
本稿で用いる諸概念の整理
 本稿では、オリエンテーリングというスポーツの一形態がどのように日本に普及したのかを明らかにする。オリエンテーリング〈場〉が政治〈場〉の影響を強く受けながら形作られていった様相と、その後、愛好家のクラブが成立しオリエンテーリング〈場〉で力を増していく中で、オリエンテーリング〈場〉の構造が変動し政治〈場〉から独立していく様相を分析することを主眼としている。
 このため分析に当たっては、オリエンテ―リング実践に関わる集団・組織・制度などの構造の変動性を視座に入れること、その変動の様相を、体力つくりを中心とした集団とオリエンテ―リング愛好者の集団における象徴闘争との関係で捉えることが求められる。そこで本稿では、空間の動態的な関係性を把握するうえでの〈場〉・資本・ハビトゥス・象徴闘争・再生産戦略などの概念について、主にブルデューの議論を下敷きにしながら分析する。

1〈界〉とオリエンテーリング〈界〉
〈界〉とは一つの社会空間である。ブルデューは〈界〉について以下のように述べている。

 社会の進化は次第に、固有の法則のもつ、自律的な世界(わたしが界と呼んでいるもの)を出現させます。根本規範というものはしばしば同語反復です。経済界の根本規範は、功利主義哲学者たちが編み出したものですが、「ビジネスはビジネス」です。芸術界の根本規範は、芸術至上主義派(芸術のための芸術派)が明示的に措定しましたが、「芸術の目標は芸術」「芸術には芸術以外の目標はない」です。こうして、一つの根本規範を持つ、他の領域のノモスに左右されることのないノモスを持つ社会領域、自律したauto-nomes社会領域が出現します。そのような世界は、そこで生起することを、そこに賭けられる賭金=争点を、他の世界の原理と基準に還元できない原理と基準にしたがって評価します。(Bourdieu 1994=2007:195)

また、ブルデューは〈界〉について歴史的ではなく、分析的にも以下のように説明している。

 高度に差異化〔分化〕した社会では、社会というコスモスはいくつかの相対的に自律した社会的ミクロコスモスから成り立っています。そのミクロコスモスは客観的諸関係からなる空間であって、他の界を統御しているメカニズムや必然性には還元されない、特殊なメカニズムや必然性が存在する場所です。(Bourdie 1992=2007:131)

つまり、界は歴史的分化によってうまれたミクロコスモスであり、社会空間を構成する〈界〉は他の〈界〉から相対的な自立性を備えている。したがって、加藤晴久(2015)がいうように〈界〉が「相対的に自立(律)的であるということは、それぞれの界には固有の賭け金=争点(権力、資本)がある」ということである。それはつまり、「それぞれの界でひとは固有の目標を追求するということ、固有の資本の獲得・蓄積を目指すということ」である.また、それぞれの〈界〉では、その〈界〉にそった固有の規則を確立し、たとえば経済〈界〉といった他の界からの影響を排除して自立(律)性を維持しようとする(加藤 2015)。
 ここまでの議論に従うと、スポーツ〈界〉はアマチュアリズムにおいて唱えられていた「スポーツの目標はスポーツ」というように、スポーツの固有の規則を持ち、他の〈界〉から自律した社会領域といえる。また、ブルデューは〈界〉同士の関係からだけではなく、〈界〉内部の性質に注目し次のようにも述べている。

 界は位置の間の客観的諸関係のネットワーク、あるいは布置構造として定義できます。それらの位置は、その存在によって、またその位置が位置を占める者、行為者もしくは機関に対して押しつけられる決定作用によって、そしてまたさまざまな種類の権力(もしくは資本)
の分布構造においてその位置が現に作用するか潜在している状況(situs)によって、さらにほかの位置との客観的な関係(支配、従属、同型性など)によって客観的に定義されます。それらの権力を握っているということは、界のなかで賭け金になっている特殊な利潤を手に入れるということです。(Bourdie 1992=2007:131)

つまり、〈界〉は〈位置〉positionsの場である。換言すれば、それぞれの行為者(個人ないし集団)がそれぞれの資本の総量と構成、それが規定する性向に応じて空間に位置を占めているということである。そして、界はまた、〈位置取り〉のprises de position の場である。〈位置取り〉とは行為者がそれぞれの位置に適応するかたちでとる諸行動と諸表現の構造化された総体である(加藤 2105)。つまり、スポーツ〈界〉とはスポーツにまつわる行為者がそれぞれの資本の総量と構成、性向に応じて〈界〉においてある位置を占めており、その位置に適応するかたちでスポーツ行動とスポーツ表現が構造化された総体でもある。それらのそれぞれの行為者の関係性において、スポーツ〈場〉は成り立っている。
 さらにブルデューは〈界〉における〈賭け金〉の概念をゲームのたとえで説明している。

 界には本質においてプレーヤーどおしの競争の産物であるような賭け金があります。ゲームへの投資、つまりイリューシオillusio(ludusの語源はゲームです)があるのです。プレーヤーたちがだんだん本気になっていき、時には激しく対立し合うのは、プレーヤーたちが共通してゲームにもその賭け金にもひとつの信念=信仰(ドクサ)、ひとつの承認を与えてしまっているため、ゲームや賭け金が問題とされることがないからなんですね(プレーヤーたちは「契約」によるわけではなく、とにかくゲームをプレイしてしまっているのですから、その時点でゲームがプレイに値する、骨折りがいがあるということに同意してしまっているんです).(Bourdie 1992=2007:132)

 つまり、〈界〉の成員は〈界〉に参加しているがゆえに、その参加している〈界〉固有の賭け金=争点、つまり〈資本〉や権力は価値のあるものであり、それらを競争し合いことは意味があることだという信念(イリューシオ)を持っている。〈界〉ではイリューシオを動力として、賭け金の争い合いが起こるのである。このように〈界〉の内部では闘争が繰り広げられており、〈界〉は不変ではないととられている。つまり〈界〉の構造は、〈界〉の歴史の中での現時点の状態であり、変動する。〈界〉はある位置同士の闘争の場でもあるのである。また、ブルデュー文化財生産の〈界〉における闘争について、より詳しく言及している。

 文学界ないしは芸術界で繰り広げられている闘争の主要な賭け金の一つが、まさに界の境界の定義、つまり闘争への正統なる参加権の定義であるわけです。これこれの潮流、これこれのグループについて、「あれは詩ではない」とか「文学ではない」と言うことは、正統な存在を認めないこと、ゲームから排除すること、破門することです。この象徴的排除は、正統的実践の定義を押しつけ、例えば、ある形の特殊的資本の所有者の特殊的利益に合致する、芸術なりジャンルなりの歴史的定義を、永遠・普遍の本質に仕立て上げてしまおうとする努力の、裏側に他なりません。この戦略は、その賭け金である管轄範囲の定義と同様、不可分の形で芸術的かつ政治的(特殊的な意味で)なものですが、それがうめくいった場合には、他のすべての生産者が所持している資本に対する一つの権力を与えてくれる体のものです。何故なら、正統的実践の定義を押しつけることができれば、自分の手持ちの切札に最も有利なゲームの規則が、全員に対して(とりわけ、少なくとも最終的には、消費者に)押しつけられることになり、自分の成就したものが、すべての成就の尺度となるからです。

 つまり、文化財生産の〈界〉の闘争では、〈界〉の境界の定義、すなわち正統的実践の定義の闘争が繰り広げられているのである。これは文化財生産の〈界〉の下位の〈界〉であるスポーツ〈界〉にもいうことができる。それはつまり、スポーツ〈界〉ではスポーツの正しいやり方や正しいあり方という、価値を賭けて闘争が行われている。そしてブルデューもスポーツ〈場〉について

 スポーツ活動の場は、わけてもスポーツ活動の正しい定義の強制を、スポーツ活動の正しい機能の強制を、独占しようとすることを狙った闘争の場です。プロフェッショナリズム/アマチュアリズム、するスポーツ/見るスポーツ、エリートの弁別的なスポーツ/大衆の庶民的なスポーツ等々。さらに、このスポーツ活動の場は、それ自体が正しい肉体、肉体の正しい使い方の定義をめぐる闘争の場に組み込まれています。(略)スポーツの使用という肉体の使用にとくにかかわりある人びとが、正しい定義を独占的に押し付けようとして争う闘いは、おそらく歴史を超えて不変です(Bourdieu 1980=1991:??)(読む)

と説明している。こうしたブルデューの〈界〉の議論に依拠しながら、松尾哲夫(2015)はスポーツの〈場〉を「スポーツ文化にとって正しいやり方や正しいあり方を示す文化的正統性という一つの共通の価値を賭けて、スポーツに利害・関心を有する人々(アスリート、監督・コーチ、審判、保護者、競技団体関係者、観衆、雑誌・新聞編集者、学者、批評家など)の総体の間に結ばれる客観的諸関係からなる理念的に想定された空間」と定義している。また、「それは、社会的空間の構造と密接に連関をもちながら相対的に独自の価値観、美意識や信念によって成り立つ、一定の自律した世界としてとらえることができる」とも述べている。そして、「スポーツ〈場〉はその内部と外部、需要と供給の関係の中で、相対的自律性や文化的正統性の獲得に向けた不断の再生産戦略の遂行を余儀なくされていて、他の〈場〉とのせめぎ合い、あるいはその〈場〉を構成する複数の下位〈場〉同士のせめぎ合いを常態とするものである」といい、「スポーツ〈場〉は、スポーツ実践の正統なあり方の定義をめぐり、さまざまなレベルで象徴的な闘争が繰り広げられている〈場〉として把捉される」という(松尾 2015)。本稿でも、この松尾の定義を従いスポーツ〈場〉を捉える。
 オリエンテ―リングもスポーツの一形態であり、スポーツ〈界〉の下位の〈界〉として捉えることができる。従って、オリエンテ―リング〈界〉は「オリンテ―リング分化にとって正しいやり方や正しいあり方を示す文化的正統性という一つの共通する価値を賭けて、オリンテ―リングに利害・関心を有する人々(アスリート、監督・コーチ、クラブ員、競技団体関係者、行政職員、雑誌・新聞編集社、学者、批評家など)の総体の間に結ばれる客観的諸関係からなる理念的に想定された空間」と定義することとにする。

(4000文字/6h)

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以上、ブルデューさんの〈界〉の概念を援用したオリンテ―リング〈界〉の議論でした。
これを使いながら、歴史を記述していくことになります。
また、ブルデューさんじゃ〈界〉以外にもハビトゥスや、資本とった重要な概念も説明しており、明日以降はこれらをオリンテ―リングに当てはめていくことにします。